スタートアップの就業規則と固定残業代|作成義務と判例法理
こんにちは。LegalAgent 代表弁護士の朝戸です。
求人票に「固定残業代(見込み時間30時間分、5万円を含む)」と書いて採用を進めながら、入社後の給与明細では5万円がどの手当に当たるか分からないまま運用を続けている会社を想定します。雇用契約書には「固定残業代を支給する」とあるだけで、就業規則には規定がなく、日々の残業時間を記録した資料も残っていない状態です。
固定残業代は、一定額を支払えば残業時間の管理や記録を省ける制度ではありません。基本給などの通常賃金との区別、対象となる時間数と金額、法定計算額が固定額を上回る場合の追加精算、日々の実労働時間の把握、そして求人票から給与明細までの各書類の一致を確かめる作業を丁寧に行います。もっとも、これらは運用の健全性を確かめる総合的な点検項目であり、一つの記載不備が制度全体の効力にどう影響するかは、具体的に検討します。通常賃金との区別や時間外労働の対価としての実質に疑問が生じると、固定残業代を支払っていたつもりでも、割増賃金の未払いと扱われるリスクを抱えることになります。
就業規則の作成義務と法定手続
労働基準法89条は、常時10人以上の労働者を使用する使用者に対し、就業規則を作成して行政官庁へ届け出ることを義務付けています。この「常時10人以上」という基準は事業場ごとに、パートやアルバイトも含めて判定します。小規模な営業所や出張所が独立した事業場に当たるか、本社と一体として扱われるかは実態に即して判断します。たとえば、本社が10人未満であっても10人以上の支店があればその事業場に作成・届出義務が生じます。反対に、全社で10人を超えていても、独立して数える各事業場がすべて10人未満であれば、89条による作成義務自体は発生しません。
事業場の人数が10人に満たない場合でも、労務管理上の各種の義務が免除されるわけではない点に留意します。労働条件の明示義務(労働基準法15条)や割増賃金の支払義務(同法37条)、日々の労働時間を把握する義務は、従業員数にかかわらず適用されます。また、作成義務がない段階であっても任意に就業規則を定めて周知しておけば、合理的な労働条件を契約内容とする労働契約法7条の効力や、就業規則を下回る合意を無効とする同法12条の最低基準効を通じて、社内の労働条件を統一して管理しやすくなります。
就業規則を作成した後は、所定の法定手続を踏んで運用に移します。使用者は、規則の作成や変更にあたり、事業場の労働者の過半数で組織する労働組合、それがない場合は労働者の過半数を代表する者の意見を聴く義務があり(労働基準法90条1項)、届出時にはその意見を記した意見書を添付します(同条2項)。同条が要求するのは意見聴取であり、同意の取得までは求めていません。
届け出た就業規則は、労働者への周知を経て初めて契約上の規範として機能します。労働基準法106条1項は、作業場の見やすい場所への掲示や備え付け、書面の交付などの方法で労働者に周知させることを定めています。この周知の手続は、合理的な就業規則の効力を認める労働契約法7条や、就業規則の変更によって不利益に労働条件を変更する際の要件を定めた同法10条、さらには同法12条の最低基準効の観点からも大きな意味を持ちます。行政官庁への届出や意見聴取に不備があるという行政法上の責任と、その規定が個々の労働契約の内容になるかという民事上の効力は、切り離して検討することが大切です。
なお、厚生労働省は「モデル就業規則」を公表しており、2026年9月13日に厚生労働省の掲載ページで確認した全体版は令和7年12月版となっています。モデル就業規則は汎用的なひな形ですので、固定残業代を設ける場合には、自社の給与体系に合わせて対象時間数や金額、超過分の精算方法を条文へ具体的に書き込みます。
固定残業代が割増賃金として認められる要件
固定残業代は、時間外労働等に対する割増賃金をあらかじめ定額で支給する仕組みです。この支払が労働基準法37条の割増賃金の支払として法的に有効と認められるかについて、最高裁判例は明確な判断枠組みを示してきました。その中心となるのは、通常の労働時間に対する賃金部分と割増賃金に当たる部分が明確に判別できること、支給される金員が時間外労働等の対価として支払われているかという点です。加えて、法定の方法で計算した割増賃金額が固定残業代を上回る場合には、不足額を支払う義務があります。これは別途の差額支払合意がないと常に制度全体が無効になるという意味ではありません。
厚生労働省の固定残業代Q&Aでも取り上げられている医療法人康心会事件(最高裁平成29年7月7日判決)では、通常賃金と割増賃金の明確な区別や、法定計算額に不足が生じた場合の差額支払の重要性が示されました。基本給の中に固定残業代を組み込む形態をとる場合であっても、金額と相当する時間数を契約上明示し、通常賃金部分と計算上判別できる状態にしておかなければなりません。
また、手当が時間外労働等の対価であるか否かについて、日本ケミカル事件(最高裁平成30年7月19日判決)は、雇用契約書などの記載内容、採用時における使用者からの説明内容、実際の勤務実態、賃金体系全体における手当の位置付けなどを総合考慮して判断する枠組みを示しました。給与明細や規程に「固定残業手当」という名称を付けていても、実態に照らして時間外労働の対価と評価できなければ、割増賃金としての効力は否定されます。
これらを踏まえると、制度を整える際の確認事項は次の四点に整理できます。
- 基本給や諸手当と固定残業代部分の金額を明確に区分して明示すること
- 固定残業代の対象となる時間数と金額を雇用契約書や就業規則に明記すること
- 実労働時間に基づく法定計算額が固定残業代を上回った場合に差額を支払い、対象外の休日労働や深夜労働等は別途支給すること
- 日々の実労働時間を適正に記録して把握し、設定時間と比較できる状態を保つこと
なお、実労働時間の把握については、医師による面接指導の実施などを目的として、事業者に労働時間の状況把握を義務付ける規定が労働安全衛生法にも置かれています。
もし通常賃金部分と区別できない場合や、時間外労働の対価と認められない場合には、固定残業代としての弁済効が否定され、手当相当額を通常賃金に算入したうえで割増賃金を再計算する事態に至ります。もっとも、過去の差額に未払いがあったり、労働時間の記録に一部不備があったりしたことだけで、直ちに既払手当の全額を通常賃金へ算入するとは限りません。固定残業代として支払っていた金額が「通常の労働時間の賃金」に組み込まれる結果、割増賃金の算定単価が跳ね上がり、過去の実残業時間に基づく割増賃金を一から再計算して多額の差額を支払う事態につながる点が実務上のリスクとなります。
求人票・雇用契約書・就業規則・給与明細の整合
固定残業代を採用して募集を行う場合、厚生労働省は求人票における具体的な明示事項を示しています。前記の固定残業代Q&Aでも触れられているとおり、固定残業代を除いた基本給の額、固定残業代の計算方法(対象時間数と金額)、そして設定時間を超えて時間外労働等を行った場合に追加の割増賃金を支払う旨の三点を書面等で求職者に明示する必要があります。
ここで示した条件は、入社後に交付する雇用契約書や労働条件通知書、自社の就業規則、そして毎月発行する給与明細の記載と矛盾しないようにすることが大切です。募集時から労働条件を変更する場合には、法令に従い変更点を明示して合意内容を確認します。たとえば、求人票には「固定残業代30時間分・5万円」と記載していたにもかかわらず、雇用契約書には「固定残業代を含む」としか書かれておらず、就業規則には根拠条文がなく、給与明細でもどの手当が固定残業代か分からない状態だとします。このような状態では、判別可能性や契約上の合意という要件を支えきれなくなります。
採用時の求人票、入社時の雇用契約書、社内の就業規則、毎月の給与明細という四つの書類を並べ、記載されている対象時間数と支給額が一致しているかを突き合わせて確認することが、制度を適正に機能させる前提となります。
36協定と固定残業代の役割の違い
固定残業代はあくまで割増賃金の支払いに関する取り決めであり、労働者に法定時間外労働を命じるための法的な権限とは別に考えます。使用者が労働時間規制の対象となる従業員に対して法定労働時間を超える労働を命じるには、労働基準法33条の非常災害時などの例外を除き、事業場の過半数労働組合、それがない場合は適正に選出された過半数代表者と労使協定(いわゆる36協定)を締結し、所轄の労働基準監督署へ届け出ておく必要があります(同法36条1項)。雇用契約書や就業規則に固定残業代の対象時間数を定めたからといって、それだけでは残業命令の根拠として足りず、36協定の有効な締結・届出と、就業規則などに基づく時間外労働命令権の根拠がそろっていなければなりません。
固定残業代の対象時間数は、毎月いくらの割増賃金を定額で支給するかを定める給与計算上の枠組みです。これに対して36協定は、労働基準法が原則として禁止している法定労働時間を超える労働を例外的に適法化するための手続であり、両者は法的な役割がまったく異なります。固定残業代を定めていても、その時間分の残業を労働者に義務付けることにはならず、残業そのものを法的に許容する根拠にもなりません。36協定を必要とする労働について締結や届出を行わずに法定時間外労働を行わせた場合、どれほど厳密に固定残業代の計算を行っていたとしても、労働基準法32条違反等として刑事罰の対象となり得る責任が別途生じます。
超過分の精算計算と既存制度の点検手順
固定残業代についても、毎月の法定計算額との比較が欠かせません。実際の時間外労働等の合計時間について労働基準法37条所定の方法で計算した割増賃金の総額を算出し、その額が対応する既払固定残業代を上回れば、不足額を追加支給します。計算はその月の対象労働全体について法定割増賃金額を求めたうえで、固定残業代との差額を清算する形をとります。また、実労働時間が固定残業時間の枠内に収まっていても、深夜労働の割増率や算定基礎賃金の変動によって法定計算額が固定残業代を上回る場合には、その不足分を精算しなければなりません。固定残業代の対象外としている休日労働や深夜労働の手当は、当然ながら別途支払う必要があります。
反対に、実際の時間外労働等が設定した時間を下回った月であっても、固定残業代を減額したり労働者に返還を求めたりすることは原則として予定されていません。固定残業代は月々の残業時間の増減にかかわらず定額の割増賃金を保障する契約であり、実労働時間が少なかったからといってその理由だけで支給額を削る扱いには問題があると考えています。こうした仕組みの性格は、社内の給与計算担当者とも共通認識を持っておくことが大切です。
既存の制度を点検する際は、まず求人票、雇用契約書、就業規則、給与明細の四点を手元に集め、対象時間数と支給額の記載に矛盾がなく、変更がある場合には必要な明示・合意がされているかを照合します。あわせて、事業場の人数等に応じた就業規則の作成・変更手続と、過半数労働組合又は適正な過半数代表者からの意見聴取、監督署への届出、従業員への周知が漏れなく行われているかを確認します。さらに、勤怠管理システムやタイムカードの実労働時間記録と固定残業代の枠を突き合わせ、枠内の月も含め、法定計算に基づく不足額がきちんと支給されているか、そして時間外労働の根拠となる36協定が有効に締結・届出されているかを確かめます。
点検の過程で、固定残業時間を超過している月があるにもかかわらず差額が支払われていない事実が判明した場合には、勤怠データを正確に整理したうえで、過去に遡った精算方法や雇用契約書・就業規則の改定手順を検討していきます。労働時間管理や顧客対応を含む労務リスク全般の点検についてはスタートアップが後回しにしがちな労務リスクとカスタマーハラスメント対応で詳しく触れています。また、組織の拡大期に応じた法務体制の再構築はシリーズA後に、法務体制をどう作り直すべきか、初期からの法務設計の全体像はスタートアップ法務とは?でそれぞれ解説しています。就業規則や固定残業代の制度点検を含む顧問対応はスタートアップ法務・資金調達支援で扱っています。
よくある質問
従業員が10人未満のスタートアップでも、就業規則や固定残業代のルールは不要ですか。
就業規則の作成・届出義務そのものは、労働基準法89条により事業場ごとに常時10人以上の労働者を使用する場合に生じるため、10人未満の事業場では作成義務自体は生じないと考えられます。ただし、労働条件の明示義務(労働基準法15条)、割増賃金の支払義務(同法37条)、実労働時間の把握といった義務は事業場の人数と関係なく発生するため、10人未満であることを理由に労務ルールが不要になるわけではないと考えられます。
固定残業代を支給していれば、対象時間まで残業させてよいのですか。
そうとは言えません。固定残業代は割増賃金をあらかじめ定額で支払う方法であり、労働者に時間外労働をさせるための法的根拠ではありません。使用者が法定労働時間を超えて労働させるには、労働基準法33条の要件を満たす場合を除き、事業場の過半数代表との労使協定(36協定)の締結・届出に加えて、就業規則等における時間外労働命令権の根拠が別途必要になると考えられます。
固定残業代が判別可能性や対価性の要件を満たさないと判断された場合、雇用契約全体が無効になりますか。
一律に無効になるとは考えられません。固定残業代として支払っていた部分が時間外労働等の対価として認められない場合、その部分は通常の労働時間の賃金として扱われ、割増賃金の算定基礎に組み込まれたうえで、実労働時間に基づく割増賃金をあらためて計算し、既払額との差額を支払う必要が生じ得ます。基本給や他の手当の合意自体が当然に無効になるわけではないと考えられます。