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スタートアップ法務

スタートアップの就業規則と固定残業代|作成義務が生じる事業場と割増賃金の判例法理

こんにちは。LegalAgent 代表弁護士の朝戸です。

求人票に「固定残業代(見込み時間30時間分、5万円を含む)」と記載して採用を進めていた会社が、入社後に作成した給与明細ではこの5万円がどの手当に当たるのか分からない状態のまま運用を続けていることがあります。雇用契約書には「固定残業代を支給する」とだけ記載され、就業規則には固定残業代に関する規定がなく、実際の残業時間を記録した資料も揃っていません。

固定残業代は、定額を支払えば残業の管理や記録が不要になる制度ではありません。通常の賃金部分との判別、対象となる時間数と金額、その時間を超えた分の追加支払、実労働時間の把握、そして雇用契約書・就業規則・給与明細・求人票の記載の一致という条件が揃って初めて、割増賃金の支払方法として機能します。どれか一つが欠けると、固定残業代を支払っていたつもりでも、割増賃金の未払いとして扱われる可能性が生じます。

就業規則の作成義務が生じる事業場

労働基準法89条は「常時十人以上の労働者を使用する使用者は、次に掲げる事項について就業規則を作成し、行政官庁に届け出なければならない」と定めています(労働基準法89条、2026年7月11日確認)。ここでいう「常時10人以上」は、会社全体の従業員数ではなく、事業場ごとに数えます。同条の柱書は「使用者」という文言を用いていますが、同条10号、90条、92条がいずれも「当該事業場」という文言を使用していることから、就業規則の作成義務は事業場単位で判断されると解されています(川口美貴『労働法〔第8版〕』103頁)。本社の人数が10人未満でも、支店・営業所など事業場ごとに数えて10人以上となる拠点があれば、その事業場について作成・届出義務が生じます。反対に、会社全体では10人を超えていても、どの事業場も10人未満であれば、89条の作成義務自体は生じません。

事業場の人数が10人に満たない場合、就業規則の作成・届出義務そのものは生じません。ただし、これは就業規則や労務管理のルールが不要になることを意味しません。労働条件の明示義務(労働基準法15条)、割増賃金の支払義務(同法37条)、実労働時間の把握といった義務は、事業場の人数と関係なく発生します。作成義務のない事業場でも、採用時に説明した労働条件と実際の運用を一致させる必要がある点は変わりません。また、作成義務のない段階で就業規則を任意に整備しておくと、労働契約法7条の非有利設定効や12条の最低基準効を通じて、労働条件を統一的に運用しやすくなるという意味があります(川口・前掲100頁、105頁以下)。

作成、意見聴取、届出、周知の手続

就業規則を有効に機能させるには、作成するだけでなく、法定の手続を踏む必要があります。使用者は、就業規則の作成又は変更について、事業場の過半数代表(労働者の過半数で組織する労働組合、これがない場合は労働者の過半数を代表する者)の意見を聴かなければならず(労働基準法90条1項)、行政官庁への届出にあたってはその意見を記した書面を添付しなければなりません(同条2項)。過半数代表との協議や同意までは求められていませんが、意見聴取自体を省略することはできません。

届出を終えた就業規則は、さらに労働者へ周知する必要があります。労働基準法106条1項は、就業規則を「常時各作業場の見やすい場所へ掲示し、又は備え付けること、書面を交付することその他の厚生労働省令で定める方法によつて、労働者に周知させなければならない」と定めています(労働基準法106条1項、2026年7月11日確認)。周知は形式的な手続にとどまらず、就業規則が労働契約の内容を設定・変更する効力(労働契約法7条の非有利設定効、同法12条の最低基準効)が生じるための要件としても位置づけられています(川口・前掲107頁、152頁)。固定残業代の対象時間・金額を就業規則に定める場合も、意見聴取・届出・周知のいずれかを欠けば、その規定が労働契約の内容として機能しない可能性があります。

厚生労働省は「モデル就業規則」を公表しており、2026年7月11日時点の最新版は令和7年12月改定版です(厚生労働省「モデル就業規則」、2026年7月11日確認)。モデル就業規則はひな形であり、固定残業代を採用する場合の規定は、対象時間・金額・超過分の追加払いを自社の賃金体系に合わせて具体的に書き込む必要があります。

固定残業代が割増賃金の支払として認められるための確認点

固定残業代は、割増賃金をあらかじめ定額で支払う方法です。この方法が労働基準法37条の割増賃金支払として認められるかどうかについて、最高裁判例は判断枠組みを積み重ねてきました。中心となる要件は、通常の労働時間の賃金部分と割増賃金部分との判別可能性、支払われている賃金部分が時間外労働等の対価として合意されていること、労働基準法37条所定の方法で計算した割増賃金額が固定残業代を上回るときに差額を支払うことの三点です。

判別可能性については、高知県観光事件(最二小判平成6年6月13日集民172号673頁)以降、テックジャパン事件(最一小判平成24年3月8日集民240号121頁)、国際自動車事件(最三小判平成29年2月28日集民255号1頁)、医療法人社団康心会事件(最二小判平成29年7月7日集民256号31頁)、国際自動車事件・第二次上告審(最一小判令和2年3月30日民集74巻3号549頁)、熊本総合運輸事件(最二小判令和5年3月10日労判1284号5頁)と、繰り返し確認されています(川口・前掲311頁)。基本給に固定残業代を組み込む場合は、その金額と対象時間数を明示し、通常賃金部分と区別できる形にしておく必要があります。

時間外労働等の対価であることについては、日本ケミカル事件(最一小判平成30年7月19日集民259号77頁)が、契約書の記載内容、使用者による労働者への説明内容、実際の勤務状況、賃金体系全体における当該手当の位置づけなどを考慮して判断する枠組みを示しました(川口・前掲312頁)。手当の名称が「固定残業代」であっても、実態として時間外労働の対価と評価できなければ、この要件を満たしません。

この判例上の枠組みを実務のチェックポイントに落とし込むと、次の四点になります。

  • 基本給・諸手当と固定残業代部分の金額を区分して明示していること
  • 固定残業代の対象時間数と金額を雇用契約書・就業規則に明記していること
  • 対象時間数を超えた時間外労働・休日労働・深夜労働について差額を追加で支払っていること
  • 実際の労働時間を記録・把握し、対象時間数との比較ができる状態にあること

実労働時間の把握については、面接指導の実施を目的として、事業者に労働時間の状況の把握を義務付ける規定が労働安全衛生法にも置かれています(労働安全衛生法66条の8の3、2026年7月11日確認)。

これらの要件のいずれかを欠くと判断された場合、固定残業代として支払っていた部分は時間外労働等の対価とは認められず、通常の労働時間の賃金の一部として扱われます。その結果、固定残業代に充てていた金額も割増賃金の算定基礎となる「通常の労働時間の賃金」に組み込まれ、実労働時間に基づく割増賃金をあらためて計算し、既払額との差額を支払う必要が生じ得ます。基本給や他の手当の合意自体が当然に無効になるとは限らず、固定残業代部分の性質評価が変わることで割増賃金の再計算という帰結が生じる、という理解が正確です。

求人票、労働条件通知書、就業規則、給与明細の整合

固定残業代を採用する場合、厚生労働省は求人票への明示について具体的な内容を示しています。厚生労働省「スタートアップ労働条件」の事業者・労務管理担当の方のQ&Aは、固定残業代を支払うことにしても残業や休日勤務について別途の割増賃金支払が不要になるわけではないとしたうえで、「通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分(固定残業代)とを判別できるようにした上で」対応する必要があり、「割増賃金に当たる部分(固定残業代)の金額が労基法37条等に定められた方法により算定した割増賃金の額を下回るときは、その差額を支払う必要があります」と説明しています(厚生労働省「スタートアップ労働条件」事業者・労務管理担当の方のQ&A「固定残業代を支払うこととすれば、残業や休日勤務をさせても別途に残業代を支払わなくてよいでしょうか」、2026年7月11日確認)。求人票では、固定残業代を除いた基本給の額、固定残業代の計算方法(対象時間数と金額)、その時間を超える時間外労働等について追加で割増賃金を支払う旨の三点を明示する運用が求められています。

この求人票の記載は、入社後の雇用契約書・労働条件通知書、就業規則、給与明細の記載と一致している必要があります。求人票では時間数と金額が明示されていても、雇用契約書では「固定残業代を含む」としか書かれておらず、就業規則には固定残業代の規定自体がなく、給与明細でも固定残業代がどの手当に当たるか判別できない、という組み合わせになっていると、前節で確認した判別可能性や契約上の根拠の要件を満たせなくなります。求人票・雇用契約書・就業規則・給与明細の四つを横に並べ、対象時間数と金額が一致しているかを確認する作業が、固定残業代を運用するうえでの前提になります。

固定時間を超えた月と下回った月の扱い

固定残業代は、対象時間数を上限として決まった金額だけを支払う制度とは異なります。実際の時間外労働等が対象時間数を超えた月は、その超えた時間について労働基準法37条所定の方法で計算した割増賃金と固定残業代の差額を、追加で支払う必要があります。固定残業代を支払っているからその月の割増賃金は発生しない、という扱いは成り立たないと考えられます。

反対に、実際の時間外労働等が対象時間数を下回った月については、固定残業代の合意が対象時間分の割増賃金をあらかじめ定額で支払うという内容である以上、下回ったことを理由に固定残業代そのものを減額したり返還させたりすることは、その合意の性質上、予定されていないと考えられます。月によって実労働時間が変動する前提で対象時間数と金額を定めているのが固定残業代であり、変動を理由に月ごとの支払額を調整する制度ではないという位置づけを、社内の給与計算担当者とも共有しておく必要があります。

36協定と固定残業代の役割の違い

固定残業代は賃金の支払方法であり、労働者に時間外労働をさせるための法的根拠ではありません。使用者が労働者に法定労働時間を超えて労働させるには、労働基準法33条の要件を満たす場合を除き、事業場の過半数代表との労使協定、いわゆる36協定を締結し、行政官庁に届け出る必要があります(労働基準法36条1項)。固定残業代の対象時間数を就業規則や雇用契約書に定めたとしても、それだけで労働者に残業をさせる権限が生まれるとは限らず、36協定の締結・届出に加えて、就業規則等における時間外労働命令権の根拠が別途必要になります(川口・前掲304頁、305頁)。

固定残業代の対象時間数は、割増賃金をいくら定額で支払うかを決める賃金設計上の数字です。36協定は、そもそも時間外労働をさせてよいかどうかを決める労働時間規制上の手続であり、両者は役割が異なります。固定残業代の対象時間まで残業させる必要があると理解している例も見受けられますが、固定残業代の設定はその時間分の残業を義務付ける合意でも、残業を許容する根拠でもありません。36協定の締結・届出なしに時間外労働をさせれば、固定残業代を適切に運用していても、労働基準法32条・36条違反の問題が別に生じます。

既存制度を点検する手順

固定残業代を既に導入している会社が翌営業日から着手できる点検は、次の資料を横に並べて確認する作業です。

  • 求人票に記載した固定残業代の時間数・金額と、雇用契約書・労働条件通知書の記載の一致
  • 就業規則における固定残業代の規定の有無と、90条の意見聴取・89条の届出・106条の周知の履践状況
  • 給与明細上の固定残業代(時間外手当等の名称を含む)の金額と、雇用契約書・就業規則で定めた金額の一致
  • 実労働時間を記録したタイムカードや勤怠システムのデータと、固定残業代の対象時間数との比較、超過月における差額支払の有無
  • 時間外労働・休日労働をさせる根拠となる36協定の締結・届出状況

この点検で、固定残業代の対象時間数を超えている月があるにもかかわらず差額を支払っていない記録が見つかった場合、過去分の精算方法や就業規則・雇用契約書の改定手順を、実労働時間データを整えたうえで検討する必要があります。労働時間管理や顧客対応を含めた労務リスク全体の見直し方は、スタートアップが後回しにしがちな労務リスクとカスタマーハラスメント対応で確認できます。組織拡大に合わせた法務体制全体の整え方はシリーズA後に、法務体制をどう作り直すべきか、創業期からの法務の全体像はスタートアップ法務とは?で確認できます。

よくある質問

従業員が10人未満のスタートアップでも、就業規則や固定残業代のルールは不要ですか。

就業規則の作成・届出義務そのものは、労働基準法89条により事業場ごとに常時10人以上の労働者を使用する場合に生じるため、10人未満の事業場では作成義務自体は生じないと考えられます。ただし、労働条件の明示義務(労働基準法15条)、割増賃金の支払義務(同法37条)、実労働時間の把握といった義務は事業場の人数と関係なく発生するため、10人未満であることを理由に労務ルールが不要になるわけではないと考えられます。

固定残業代を支給していれば、対象時間まで残業させてよいのですか。

そうとは言えません。固定残業代は割増賃金をあらかじめ定額で支払う方法であり、労働者に時間外労働をさせるための法的根拠ではありません。使用者が法定労働時間を超えて労働させるには、労働基準法33条の要件を満たす場合を除き、事業場の過半数代表との労使協定(36協定)の締結・届出に加えて、就業規則等における時間外労働命令権の根拠が別途必要になると考えられます。

固定残業代が判別可能性や対価性の要件を満たさないと判断された場合、雇用契約全体が無効になりますか。

一律に無効になるとは考えられません。固定残業代として支払っていた部分が時間外労働等の対価として認められない場合、その部分は通常の労働時間の賃金として扱われ、割増賃金の算定基礎に組み込まれたうえで、実労働時間に基づく割増賃金をあらためて計算し、既払額との差額を支払う必要が生じ得ます。基本給や他の手当の合意自体が当然に無効になるわけではないと考えられます。

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