← AI法務ラボへ戻る
Insight
M&A法務

キーマン条項とリテンションとは|クロージング条件と引き止め策

こんにちは。LegalAgent 代表弁護士の朝戸です。

M&Aの交渉で、買主から「対象会社のCTOについてキーマン条項を入れたい」と希望される場面があります。この希望の背景には、キーマン条項を契約に盛り込みさえすれば、買収後もそのCTOが確実に会社に残ってくれるという誤解がないか確認しておきたいところです。

クロージング条件としてのキーマン条項は、キーマン条項の使い道の一つに過ぎません。対象会社の事業を進めるうえで特定の役員や従業員の任用・雇用継続が欠かせない場合に、それを買主側の義務履行の前提条件として定める規定です。前提条件は、取引を実行するかどうかを売主と買主の間で決めるための仕組みであり、契約当事者ではない本人の退職や辞任を直接止める効力は持ちません。買収後もキーマンに会社にとどまってもらうには、報酬や権限、契約条件などを通じた別のリテンション設計を整えておくことになります。

前提条件としてのキーマン条項と、買収後の処遇や権限によるリテンションは、目的も手段も異なる別個の枠組みです。前者は取引を実行するかどうかを判断するために当事者間でリスクを分担する手立てであり、後者は買収後に本人の自発的な意思へ働きかける施策です。契約で拘束できる範囲と、当事者間でリスクを割り振る範囲を、あらかじめ切り分けて捉える視点が大切になります。

取引条件と人材施策の切り分け

キーマン条項をクロージングの前提条件に置く場合、対象となるのは「特定の役員や従業員の雇用や任用がクロージング日まで続いていること」や「クロージング後の就任に係る契約が締結されていること」といった客観的な事実の有無です。この前提条件が満たされないときに取引の実行を拒むか、あるいは条件を放棄して進めるかは、どちらの利益のための条件かという点や、契約内の放棄条項、解除条項の定めに沿って判断します。売主が約束した努力義務に違反したかと、結果として条件が満たされたかどうかも切り離して捉えます。いずれの場合も、この条項が機能するのは取引を実行するかどうかの判断にとどまり、キーマン本人が会社を辞めるかどうかの決断そのものを縛るわけではありません。

これに対して、買収後のリテンションは、キーマン本人との間で合意を形成する取り組みです。報酬や役職の変更、株式やストックオプションの付与、契約条件の見直しは、本人との個別合意を土台に進めるのが基本です。もっとも、人事権に基づく適法な配置や、合意による変更を基本とする労働契約法8条に対し、同法9条・10条の要件を満たす合理的な就業規則変更による労働条件の変更など、個別合意とは異なる枠組みによる場合もあります。売主と買主の間のSPA(株式譲渡契約)でどれほど細かくキーマン条項を定めても、対象者本人との合意や法的手続を飛ばすことはできません。M&Aの交渉を始めた段階から、クロージング条件の設計と買収後のリテンション施策を、別の作業として並行して進める必要があります。

キーマンの特定と前提条件の設計

キーマンの特定は、単に名前を並べるだけでは足りません。事業を継続するうえで、どの業務を誰が一人で抱えているかを確かめる作業です。特定の顧客との信頼関係を担う営業担当者、基幹システムの設計思想を把握しているエンジニア、許認可の名義人や行政窓口となっている責任者、資金調達を担う代表者、社内の労務管理を統括する責任者などが、事業継続の視点におけるキーマンに該当します。デューデリジェンスでは、組織図の肩書だけでなく、契約書に書かれた窓口や許認可の名義を調べます。技術資料の保管状況と顧客とのやり取りも確認し、特定の人物が抜けた場合に業務のどこに滞りが生じるかを洗い出します。

クロージング条件の設計には、いくつかの型があります。特定の個人がクロージング日まで在籍していることを条件にする型、クロージング後の契約締結を条件にする型、退任や退職の見込みがないことを条件にする型のほか、特定の個人に限らず一定割合の従業員の雇用継続を条件に置く型です。人的なつながりが企業価値の大半を占める企業や、専門職の流動性が高い企業では、従業員の在籍割合を基準にする方法も検討できます。特定役員の在任や従業員の在籍割合を基準に据える場合は、対象者の範囲、基準日、退任予定を判断する主体や基準を契約書へ明記しておきます。

キーマン条項を置く際には特有のリスクも伴います。指定された役員や従業員が、自らの退職を交渉カードにして取引の成否に影響を与えかねない点です。報酬の引き上げなど無理な要求を受ける事態を警戒し、売主側があえてキーマン条項の設置を断ることもあります。また、従業員の自発的な退職を売主が無理に止めることはできません。在籍割合を条件にする際、売主が管理できない離職リスクをそのまま前提条件にしてしまうと、売主側の負担が重くなりすぎます。そのため、必要な同意取得を売主の努力義務にとどめる形や、一定割合を下回っても同等の人材を採用して事業に支障が出ないときは条件を満たしたとみなす例外条項を置く設計でバランスを取ります。

買収後のリテンション手段

前提条件が満たされて取引が完了した後も、キーマンが会社にとどまり続けるかは別の課題です。買収後の引き止め策としては、基本給や賞与の見直し、在籍期間に応じたリテンションボーナス、株式や新株予約権の付与、権限の保障、一定期間の業務委託契約への切り替えなどが考えられます。

個別に契約を結び直す施策では本人との合意が土台となり、会社法上の機関決定や労働条件変更のルールも踏まえます。SPAの当事者間で決めた条件を本人にも説明し、必要な合意を得ることが施策の実効性につながります。なお、形式的に業務委託契約という名称を用いても、実際の指揮命令関係や拘束性があれば労働者としての権利が失われるわけではない点にも目を配ります。また、リテンションボーナスの返還を求めるクローバック条項を設ける場合、違約金や損害賠償額の予定を禁じる労働基準法16条の趣旨を潜脱するような過度な拘束は無効となるおそれがあります。もっとも、報奨金の条件が許容されるかは、実質的な趣旨や金額の妥当性から個別に判断されます。

リテンション施策は取引後の統合作業を通じても機能するよう、直後の処遇だけでなく数年先までの待遇を見据えて設計します。SPA(株式譲渡契約)の補償・価格調整・クロージングで扱ったとおり、前提条件、誓約事項、補償は契約全体の枠組みの中でつながっており、キーマン条項もその連動性の中に位置づけられます。

退任・解任・競業避止の法的限界

キーマンとされる人物の法的な立場によって、退任や解任をめぐる規律は大きく異なります。

期間の定めのない雇用契約にある労働者であれば、いつでも解約の申入れをすることができ、申入れから2週間が経過することで雇用は終了します(民法627条1項。有期雇用の場合は民法628条など別個の規律に従います)。これに対して会社側からの解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当と認められない場合は権利の濫用として無効になります(労働契約法16条)。労働者が自ら辞める自由は手厚く守られている一方、会社から一方的に関係を断つことには厳しい制約が課されています。会社が雇用契約への署名を求めても、不当に拘束する手段で意思に反する労働を強制することは許されず(労働基準法5条)、職業選択の自由の趣旨(憲法22条1項)からも、契約によって退職の自由そのものを奪うことはできません。

取締役と会社との関係は委任の規定に従うため(会社法330条)、委任の原則によりいつでも辞任できます(民法651条1項)。ただし、会社に不利な時期の辞任などでは損害賠償責任が生じる余地があり(同条2項)、定款や法令で定められた員数を欠くときは、新たな役員が就任するまで役員としての権利義務が残る場合もあります(会社法346条)。会社側も株主総会の決議でいつでも取締役を解任できますが(会社法339条1項)、正当な理由がない解任に対しては、解任された取締役から損害賠償を請求される可能性があります(同条2項)。手続きの詳細は取締役の任期はいつ満了するかで解説しています。

SPAの売主として負う義務は、契約に従って検討します。売主が役員や従業員を兼ねているときは、それぞれの立場を分けて整理します。誓約事項や競業避止条項に違反した場合、損害賠償や補償だけでなく、有効な合意を根拠にした差止めが認められることもあります。退職後の競業避止義務についても一律に有効か無効かを割り切ることはできず、企業の守るべき正当な利益、本人の地位、期間、地域、対象業務の広さ、代償措置の有無などを総合的に考慮して判断します。判断要素の詳しい中身は競業避止義務は、広く書けばよい条項ではないで取り上げています。

キーマン依存を減らす引継ぎ体制

クロージング条件やリテンション施策をいくら入念に整えても、特定の個人に頼り切った業務体制そのものが自然に改まるわけではありません。これらは本人が最終的に退職するリスクに備える手立てである以上、特定の個人への依存を減らす引き継ぎをあらかじめ進めておく必要があります。

PMI(買収後の統合作業)が本格化する前に確かめておきたい事項は次のとおりです。

  • 主要顧客との契約窓口、商談履歴、関係性の引継ぎ体制
  • ソースコード、設計資料、技術仕様の所在とアクセス権限の分散
  • 許認可の名義、届出事項、行政対応窓口の状況
  • 各種システムやクラウドサービスにおける管理者権限の分散
  • 業務手順の言語化とマニュアルの整備状況
  • 後任候補者の選定状況と育成計画

こうした準備は、クロージング前の段階から引き止め策と並行して進めておきます。取引の完了後にまとめて手をつけようとすると、本人が離脱するまでに対応が間に合わないおそれがあります。前提条件や引き止め策のどちらか一方だけに頼る設計では、本人が離脱した際に事業継続の困難をそのまま抱え込む結果を招きます。前提条件やリテンション条項を含むSPA対応の内容はM&A支援で説明しています。

よくある質問

キーマン条項があれば、キーマンの退職を防げますか?

防げません。キーマン条項は、対象会社の役職員の任用・雇用の継続をクロージングの前提条件として定める仕組みであり、当事者間で退職に伴うリスクを配分するものです。前提条件が満たされなければ買主がクロージングの実行を拒めるという効果を持ちますが、本人の退職や辞任そのものを止める効力はありません。買収後に本人へ残ってもらうためには、報酬や役職などのリテンション施策を別途、本人との合意によって設計する必要があります。

取締役と従業員では、退任させる際の法的な扱いはどう違いますか?

従業員は、期間の定めのない雇用契約であれば民法627条1項により自ら退職の申入れをいつでも行える一方、会社側からの解雇は労働契約法16条の解雇権濫用法理により厳格に制限されます。取締役は、会社法330条により委任に関する規定に従うため、民法651条1項によりいつでも自ら辞任できます。会社側も会社法339条1項によりいつでも解任できますが、正当な理由のない解任は同条2項により損害賠償請求のリスクを伴います。

退職後の競業避止義務を課せば、キーマンの引き抜きや独立を防げますか?

一律に防げるとは限りません。退職後の競業避止義務の有効性は、守るべき企業の利益、対象者の地位、期間、地域的な限定、禁止行為の範囲、代償措置といった要素を踏まえて個別に判断されます。広く書けば強い効力を持つ条項ではなく、対象者の立場や守るべき利益に応じた設計が必要です。

あわせて読みたい記事

この記事と近いテーマの記事です。

Insight / 2026.10.04 LBOローンのタームシート|買収後の経営を左右する誓約事項と期限の利益喪失事由 Insight / 2026.10.04 LBOローンの担保・保証|対象会社の資産を提供する時期と取締役の責任 Insight / 2026.10.01 職務発明規程の作り方|権利の帰属と「相当の利益」の決め方

このテーマに関連するサービス

M&A支援 法務DD、SPAレビュー、クロージング、売主側準備を支援します。
AI法務ラボで他の記事を見る