キーマン条項とリテンションとは|M&Aのクロージング条件と買収後の引き止め策の違い
こんにちは。LegalAgent 代表弁護士の朝戸です。
M&Aの交渉で、買主から「対象会社のCTOについてキーマン条項を入れたい」という要望を受けることがあります。この要望の裏側には、キーマン条項さえ契約に入れておけば、買収後もそのCTOが会社に残ってくれるという理解が混じっていることが少なくありません。
キーマン条項は、対象会社の事業遂行にあたり特定の役職員の任用・雇用の継続が特に重要である場合に、それを買主の義務履行の前提条件として定める条項です(戸嶋浩二・内田修平・塩田尚也『M&A契約 モデル条項と解説』69頁)。前提条件は、クロージングを実行するかどうかを当事者間で判断するための仕組みであり、本人の退職や辞任そのものを止める効力を持ちません。買収後にキーマン本人へ会社に残ってもらうためには、報酬、権限、雇用・委任契約の条件、競業避止などによる、別のリテンション設計が必要になります。
クロージング条件としてのキーマン条項と、買収後の雇用・委任、報酬、権限、競業避止等によるリテンションは、別の設計です。前者は取引を実行するかどうかを判断するために当事者間でリスクを配分する仕組みであり、後者は買収後にキーマン本人の意思決定へ働きかける施策です。本人を拘束できる範囲と、取引当事者間でリスクを配分できる範囲を、先に切り分けて考える必要があります。
取引条件と人材施策の切り分け
キーマン条項がクロージングの前提条件として置かれる場合、対象は「特定の重要な役職員の任用・雇用がクロージング日まで継続していること」や「クロージング後における任用・雇用に係る契約の締結」といった事実の有無です(同書69頁)。この前提条件が満たされなければ、買主はクロージングの実行を拒むことができますが、前提条件を放棄してクロージングを進めることもできます。いずれにしても、この条項が機能するのはクロージングの実行可否という場面に限られ、キーマン本人が辞めるかどうかという意思決定そのものには関与しません。
これに対して、買収後のリテンションは、キーマン本人との間で新たな合意を作る作業です。報酬や役職の見直し、株式・ストックオプションの付与、雇用契約や委任契約の条件変更は、いずれも本人の同意がなければ成立しません。売主・買主間のSPA(株式譲渡契約)でどれだけ精緻なキーマン条項を置いても、この本人との合意作業を省略することはできません。M&Aの交渉初期段階から、クロージング条件としてのキーマン条項の設計と、買収後のリテンション施策の設計を、別のタスクとして並行して進める必要があります。
キーマンの特定方法
キーマンの特定は、氏名を挙げる作業だけでは終わりません。事業継続上どの役割を誰が単独で担っているかを確認する作業です。特定の顧客との人的な信頼関係を持つ営業担当者、コアプロダクトの設計思想を把握しているエンジニア、許認可の名義人や実務上の窓口となっている責任者、資金調達や主要取引先対応の窓口になっている代表者、社内の意思決定や労務管理のハブになっている管理部門責任者などが、事業の継続性という観点からのキーマンにあたります。
デューデリジェンスの過程では、組織図上の役職だけでなく、契約書上の窓口記載、許認可の名義、技術ドキュメントの偏在状況、顧客との連絡履歴を確認し、特定の個人がいなくなった場合に事業のどこが止まるかを洗い出す作業が必要になります。対象会社の従業員のうち一定割合の雇用継続をクロージング条件とする設計もあります。人的資産が事業価値に占める割合が大きい場合や、専門的知見を持つ従業員が多く人材の流動性が高い場合には、個人単位よりも従業員割合を基準にした設計が検討対象になります(同書69頁)。
クロージング条件の設計
キーマン条項をクロージング条件として設計する場合、いくつかのバリエーションがあります。特定の個人がクロージング日まで在籍していること(退任していないこと)を条件とする設計、クロージング後における任用・雇用に係る契約の締結を条件とする設計、クロージング後に任用・雇用が終了するおそれがないことを条件とする設計、特定の個人を基準にせず一定割合の従業員の雇用継続を条件とする設計です。書籍では「○○氏が対象会社の代表取締役社長を退任していないこと」、「本締結日時点における対象会社の従業員のうち〇%以上の雇用が継続しており、かつ、クロージング後にそれが継続しないこととなるおそれがないこと」という条項例が紹介されています(同書70頁)。
キーマン条項には固有のリスクがあります。キーマンとされた役職員本人が、自ら辞任・辞職することもできる立場にあることを背景に、取引の成否についてキャスティング・ボートを握る可能性がある点です。報酬の増額など不当な要求の材料に使われることを懸念して、売主側があえてキーマン条項を置くことを避ける場合もあります(同書69頁)。
もう一つのリスクは、売主が従業員の自主的な退職を完全に防ぐことはできないという点です。従業員割合を条件にする設計では、売主が制御できない退職リスクをそのまま前提条件に反映させると、売主にとって過大な負担になります。緩和策としては、必要な同意の取得を売主の努力義務にとどめる設計や、一定割合以上の雇用が継続していない場合でも、同等の人材の新規採用等によって対象会社の事業継続に支障をきたさない場合には前提条件が充足されたものとみなす例外事由を置く設計があります(同書70頁)。
買収後のリテンション手段
クロージング条件が満たされ取引が実行された後も、キーマンが会社に残るかどうかは別の問題として残ります。買収後のリテンション手段としては、報酬の見直し、在籍期間に応じたリテンションボーナス、株式・ストックオプションの新規付与、役職や権限の確保、評価制度上の処遇、一定期間の業務委託契約への切替えなどが挙げられます。
これらの施策は、いずれも雇用契約の変更、委任契約の締結、ストックオプション付与契約の締結など、本人との個別の合意を必要とします。SPAの当事者である売主・買主間の合意だけでは完結せず、対象者本人がその条件に納得しなければ機能しません。また、リテンション施策はクロージング時点では完結せず、統合作業が続くPMI期間を通じて機能し続ける必要があるため、クロージング直後だけでなく一定期間先までの処遇を見据えて設計する必要があります。SPA(株式譲渡契約)の補償・価格調整・クロージングで扱ったとおり、前提条件・誓約事項・補償はSPA全体の構造の中で連動しており、キーマン条項もこの構造の一部として位置付けられます。
退任・解任・競業避止の法的限界
キーマンとされる人物の立場によって、退任・解任をめぐる法的な地位はまったく異なります。
労働者としてのキーマンについては、期間の定めのない雇用契約であれば、労働者は各当事者としていつでも解約の申入れをすることができ、申入れから2週間の経過によって雇用が終了します(民法627条1項)。他方、会社側からの解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合には、権利の濫用として無効とされます(労働契約法16条)。つまり、労働者本人が辞める自由は強く保障される一方で、会社側から一方的に雇用関係を終了させることは厳格に制限されます。会社が労働者に対して雇用契約への署名を求めても、意思に反する労働の強制はできず(労働基準法5条)、職業選択の自由という趣旨(憲法22条1項)を踏まえれば、雇用契約によって退職の自由そのものを奪うことはできません。
取締役としてのキーマンについては、株式会社と取締役との関係は委任に関する規定に従うため(会社法330条)、取締役は委任の一般原則により、いつでも自ら辞任することができます(民法651条1項)。会社側も、株主総会の決議によっていつでも取締役を解任できますが(会社法339条1項)、その解任について正当な理由がない場合、解任された取締役は会社に対して損害賠償を請求することができます(同条2項)。任期満了、辞任、解任をめぐる手続の詳細は取締役の任期はいつ満了するかで扱っています。
売主株主としてのキーマンについては、労働者や取締役のような身分関係の問題ではなく、SPAや株主間契約上の契約上の義務にとどまります。誓約事項や競業避止条項に違反した場合、問題になるのは損害賠償や補償といった契約上の責任であって、身分の継続そのものを強制する手段にはなりません。
退職後の競業避止義務についても、一律に有効又は無効という説明はできません。守るべき企業の利益、対象者の地位、期間、地域的な限定、禁止行為の範囲、代償措置といった要素を踏まえて個別に判断する必要があります。この判断要素の詳細と、対象者ごとの条項設計は競業避止義務は、広く書けばよい条項ではないで扱っています。
キーマン依存を減らすPMI前の引継ぎ
クロージング条件とリテンション施策のどちらを丁寧に設計しても、特定の個人に事業運営が依存した状態そのものは解消されません。キーマン条項もリテンションも、本人が最終的に離脱する可能性を前提とした備えである以上、並行して、キーマン依存そのものを減らす引継ぎを進めておく必要があります。
PMI(買収後の統合作業)が本格化する前に確認しておきたい事項は、次のとおりです。
- 主要顧客との契約窓口・商談履歴・関係性の引継ぎ体制
- ソースコード、設計ドキュメント、技術仕様の所在とアクセス権限の分散
- 許認可の名義、届出事項、行政対応窓口の確認
- 各種システム・クラウドサービスの管理者アカウントの権限分散
- 業務ノウハウの言語化・マニュアル化の状況
- 後継者の選定状況と育成計画
これらは、クロージング前の段階からリテンション施策と並行して着手しておく必要があります。クロージング後にまとめて対応しようとすると、着手が遅れます。キーマン条項やリテンション施策のいずれか一方だけに依存する設計は、本人が実際に離脱した場面で、事業継続リスクをそのまま抱え込む結果につながります。
よくある質問
キーマン条項があれば、キーマンの退職を防げますか?
防げません。キーマン条項は、対象会社の役職員の任用・雇用の継続をクロージングの前提条件として定める仕組みであり、当事者間で退職に伴うリスクを配分するものです。前提条件が満たされなければ買主がクロージングの実行を拒めるという効果を持ちますが、本人の退職や辞任そのものを止める効力はありません。買収後に本人へ残ってもらうためには、報酬や役職などのリテンション施策を別途、本人との合意によって設計する必要があります。
取締役と従業員では、退任させる際の法的な扱いはどう違いますか?
従業員は、期間の定めのない雇用契約であれば民法627条1項により自ら退職の申入れをいつでも行える一方、会社側からの解雇は労働契約法16条の解雇権濫用法理により厳格に制限されます。取締役は、会社法330条により委任に関する規定に従うため、民法651条1項によりいつでも自ら辞任できます。会社側も会社法339条1項によりいつでも解任できますが、正当な理由のない解任は同条2項により損害賠償請求のリスクを伴います。
退職後の競業避止義務を課せば、キーマンの引き抜きや独立を防げますか?
一律に防げるとは限りません。退職後の競業避止義務の有効性は、守るべき企業の利益、対象者の地位、期間、地域的な限定、禁止行為の範囲、代償措置といった要素を踏まえて個別に判断されます。広く書けば強い効力を持つ条項ではなく、対象者の立場や守るべき利益に応じた設計が必要です。