スタートアップの人的資本開示を支える労務データ管理と指標の裏付け
こんにちは。LegalAgent 代表弁護士の朝戸です。
人的資本開示と聞くと、上場企業だけに関係する制度と思われるかもしれません。しかし未上場のスタートアップであっても、資金調達のラウンドが進んだり、上場準備や大企業との業務提携、M&Aの検討に入ったりすると、自社の組織や人について筋道の通った説明ができるかどうかを問われる場面が増えていきます。
人的資本の取り組みというと、採用サイトのメッセージやカルチャーデック、社員インタビューなどの発信を思い浮かべる方が多いはずです。そうした社外向けの発信も大切ですが、法務や労務の視点から見ると、土台となるのは日々の労務データが正しく整っているかどうかです。労働時間や有給休暇、給与や人事評価の記録をはじめ、雇用形態の区分、育児休業の取得、離職状況、研修の履歴や安全衛生の記録まで社内で正しく把握できていなければ、いくら前向きな言葉を並べても実態が伴いません。
人的資本開示で見られる数字と方針
有価証券報告書を提出する企業では、サステナビリティ全般の考え方や取り組みの中で、人材育成や社内環境整備の方針、具体的な指標と目標の記載が求められます。
関連する法制度でも、指標の公表義務が段階的に拡大されてきました。女性活躍推進法では、常時雇用する労働者が301人以上の企業に対してすでに男女間賃金差異の公表が義務付けられていますが、2026年4月1日からは対象が常時雇用101人以上の企業へ広がり、男女間賃金差異と女性管理職比率の公表が義務付けられています。この新しい義務は、2026年4月1日以後に終了する最初の事業年度の実績をもとに、事業年度終了後おおむね3か月以内などに公表する流れになります。一方、男性の育児休業取得率の公表義務は、育児・介護休業法により常時雇用300人超の企業を対象として2025年4月1日から適用されており、企業規模の基準や対象労働者の範囲は制度ごとに区別して押さえておく必要があります。
さらに金融庁は2026年2月20日、人的資本開示の見直しを含む開示府令などの改正を公布しました。これは2026年3月31日以後に終了する事業年度の有価証券報告書等から適用され、連結の経営戦略と結びついた人材戦略の記載や、従業員給与等の決定方針、提出会社における平均給与の対前年比増減率などが開示事項となっています。
この有価証券報告書に関する改正は、同報告書の提出会社を対象とするものであり、すべての未上場スタートアップにそのまま義務付けられるわけではありません。SSBJによるサステナビリティ開示基準についても、適用対象や開始時期を別に確認します。それでも、法定の義務と任意の対外発信を区別した上で、投資家や取引先から質問を受けた際に、自社の数値や方針を根拠をもって答えられる状態にしておくことは、組織への信頼を高める上で有意義です。
労務データの散在という問題
対外的に組織の数字を説明しようとしたとき、最初につまずきやすいのが社内データの散在です。労働時間は勤怠管理ツール、賃金は給与計算ソフト、評価シートはクラウドストレージ、採用実績は採用管理システム、研修記録は担当部門のファイル、ハラスメントの相談記録は個別メモ、といった形で分散しているケースが珍しくありません。記録の場所が分かれていると、集計に余計な時間がかかるだけでなく、数字の裏付けとなる根拠が曖昧になってしまいます。
また、男女間賃金差異や管理職比率、離職率、平均残業時間といった指標は、算定の定義がずれると数値そのものが大きく変わってしまいます。正社員のみを対象とするのか契約社員やパートタイマーまで含めるのか、分母や分子にどの期間のデータを用いるのか、役職の定義をどう置くかなど、前提条件の確認が欠かせません。法定公表では制度所定の定義と算定方法に従い、独自の指標を任意に示す場合は、その対象範囲と計算方法を説明します。投資家や監査法人、取引先の大企業から見れば、表面的な数値の高さだけでなく、どのような定義と集計手順で導き出された数字なのかという信頼性が重視されます。そのため、本格的な開示や説明に踏み切る前に、データの保管場所やアクセス権限、更新手順、算定の定義と計算ログを一度整理しておくことが大切です。
採用広報と法務表現のずれ
成長期のスタートアップでは、採用広報のメッセージが社内の制度より先行してしまう場面も見られます。「自由な働き方」「フルリモート」「完全な成果主義」「フラットな評価」といったキャッチコピーは候補者を引きつける力があります。しかし労務管理の観点からは、そうした対外表現が、就業規則や雇用契約書、実際の勤務管理や賃金規程と合致しているかを照らし合わせて確かめる姿勢が欠かせません。
たとえば、社外向けにはリモートワーク自由と打ち出しながら、実務上は出社を前提とした評価や会議運営を行っていると、入社後に期待と実態の不一致を招きます。成果主義をうたいながら評価基準や給与への反映方法が明文化されていなければ、処遇をめぐる不信感につながることもあります。採用広報や対外説明においては、自社の魅力を前向きに伝える工夫とともに、制度の実態と乖離させない表現選びが欠かせません。
スタートアップが早めに整えるべき項目
早い段階にあるスタートアップがまず取り組むべきなのは、大がかりな開示資料の作成よりも、足元の労務管理を地に足の着いた状態に整えることです。まずは雇用契約や就業規則、賃金規程といった基本の枠組みを固め、人事評価や勤怠管理、ハラスメント相談窓口、休職復職や退職の手続を実際の運用に合わせて整えておく必要があります。その土台があってこそ、採用から配置、報酬決定、退職に至るまでの記録を途切れなく蓄積できるようになります。
あわせて配慮したいのが、労務データの取り扱いとプライバシーの保護です。氏名や社員番号と結びついた労務記録は個人情報に該当します。統計として集約され、他の情報との容易な照合によっても特定の個人を識別できない数値は個人情報そのものには当たらないものの、その集計元となる生データには、個人の賃金額や健康状態といった特に慎重な配慮を要する情報が含まれます。こうした生データを無差別に社外や社内に公開することは避け、集計済みの統計数値と個人のプライバシー情報を切り分けて管理する姿勢が基本になります。人事担当者や役員、部門責任者や外部専門家がどこまで閲覧できるのか、目的外の利用を防ぐ手立てがあるか、記録の種類ごとの法定保存期間や必要な保存目的に沿って保管できているかについても、社内の運用ルールを明確にしておく必要があります。
資金調達や採用、上場準備で説明を求められる前に、集計の担当者と確認手順を決めておきます。数値の変化を説明できるよう、計算結果だけでなく、その根拠となる記録を残しておくことが大切です。
LegalAgentでは、スタートアップの労務管理の整備をはじめ、就業規則や雇用契約書の作成、インセンティブプランの設計、データ管理や採用広報の適法性確認を行っています。社内で実際に運用できる制度を整え、その実績に沿って対外説明を作る順序で進めたいと考えています。