退職者による顧客・従業員の引き抜き|会社の請求と証拠の要点
こんにちは。LegalAgent 代表弁護士の朝戸です。
営業担当者の退職後、長年取引していた顧客から相次いで契約終了を告げられ、同じ部署の従業員からも転職の申出が重なる。こうした事態に直面したとき、会社としては顧客や人材の流出を食い止め、退職者の責任を追及したいと考えます。
もっとも、顧客には取引先を選ぶ自由があり、従業員にも転職する自由があります。取引先や従業員が他社へ移ったという結果だけで、退職者の法的責任が認められるわけではありません。会社が請求を行えるかは、競業避止や勧誘禁止の合意、営業秘密の不正使用、在職中の誠実義務違反、あるいは自由競争の範囲を逸脱した不当な勧誘といった、具体的な根拠の有無によって変わります。実効性のある対応をとる上では、これらの法的根拠を正確に見極めた上で、客観的な証拠を早期にそろえ、警告や差止め、損害賠償といった手段を適切に選ぶ姿勢が求められます。
退職後の競業・勧誘を制限する合意の効力
退職者への責任追及にあたり、まず確かめるべきなのは、雇用契約書、就業規則、誓約書などでどのような義務が定められていたかという点です。競業避止や顧客・従業員の勧誘禁止の定めがあれば、責任追及の直接の根拠になり得ます。ただし、書面に署名や押印があることと、その制限条項のすべてが法的に有効とされることとは別個の問題です。
民法90条は、次のように定めています。
公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。
退職後の活動を広範に制約する合意は、本人の職業選択の自由や営業活動に制約を課すことになります。そのため、合意が有効といえるかは、会社が保護しようとする正当な利益と、本人が受ける不利益とのバランスから判断されます。
国家サイバー統括室のハンドブック・Q33でも、競業避止義務の有効性について、保護すべき企業の利益、従業員の地位、地域的限定、期間、禁止行為の範囲、代償措置などを総合的に検討する考え方が紹介されています。営業秘密に接する立場にあったか、禁止対象の事業と過去の担当業務がどの程度密接に関わるかも、保護すべき利益の有無を測る重要な判断要素となります。
同じ競業避止条項であっても、あらゆる同業他社への転職を一律に長期間禁じるものと、自身が担当した顧客への特定の働きかけを一定期間制限するものとでは、本人への制約の度合いが大きく異なります。顧客勧誘の禁止と従業員勧誘の禁止についても、守るべき利益や影響を受ける第三者の範囲が異なるため、条項ごとに有効性と適用範囲を個別に精査していく姿勢が欠かせません。
また、秘密保持義務と競業避止義務は区別して捉える必要があります。秘密保持契約によって、不正競争防止法上の営業秘密より広い範囲の情報を保護の対象とすることは考えられますが、本人が身に付けた一般的な知識や技能まで、秘密保持義務を理由として当然に会社が独占することはできません。どの情報や行為が禁止の対象となるのかを、合意書の文言と実際の担当業務に即して具体的に特定することが検討の出発点となります。
営業秘密の使用と在職中の義務違反
競業避止などの明確な合意が存在しない場合であっても、会社の営業秘密を不正に使用した行為や、在職中の雇用関係に伴う信義則上の義務に反する行為があれば、別の法的根拠から責任を追及できる余地があります。
顧客情報が営業秘密に当たる条件
不正競争防止法2条6項は、営業秘密を次のように定義しています。
この法律において「営業秘密」とは、秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないものをいう。
顧客の社名や代表電話番号のように一般に公開されている連絡先にとどまらず、個別の取引条件や契約更新時期、担当者の要望や意向、過去の商談履歴などを体系的に蓄積した情報であれば、営業上の有用性や非公知性を備えていると評価される可能性があります。その上で、会社がその情報を秘密として管理し、従業員から見ても秘密であることが客観的に認識できる状態に置かれていたかどうかが問われます。
秘密管理性の判断では、アクセス権限の制限をはじめとする管理の実態が重視されます。同ハンドブック・Q20でも、企業の規模や事業形態、情報の性質に応じて秘密としての認識可能性を判断する枠組みが示されています。秘密表示や社内規程のほか、従業員にどう周知・研修していたかを確かめます。紙の資料や電子データの保管状況も検討します。多くの従業員が日常業務でアクセスできたという事実だけで、直ちに秘密管理性が否定されるとは限りません。
会社から適法に開示されていた営業秘密であっても、不正の利益を得る目的や会社に損害を加える目的で使用・開示すれば、同法2条1項7号の不正競争に該当する可能性があります。データの無断複製や社外送信の履歴は有力な客観証拠となりますが、ファイルの持ち出し記録が見つからないからといって、問題がないと即断できるとは限りません。記憶に基づいて利用された情報であっても、その内容や管理状況に照らして営業秘密と認められれば、不正使用としての責任が問われ得ます。
在職中の勧誘・準備行為の評価
労働契約法3条4項は、労働者と使用者に、労働契約を遵守し、信義に従って誠実に権利を行使し、義務を履行することを求めています。労働契約上の誠実義務に違反した場合、会社は民法415条に基づき債務不履行による損害賠償を請求できる場合があります。
在職中の行動については、退職後の自由競争とは分けて考えます。秘密情報の持ち出しや在職中の勧誘などに問題があれば、在職中の義務違反が問われる場合があります。取締役を兼ねていた場合は、在任中の取締役としての義務も別途検討します。
合意がない場合の不法行為責任
競業避止条項の違反や営業秘密の不正使用が認められない場合でも、退職者の勧誘方法に着目して責任を問う道が残されています。勧誘の手段や態様が、自由競争として許容される社会通念上の限度を逸脱していると評価される場合には、一般不法行為責任が成立する余地があります。
民法709条は、次のように定めています。
故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
市場における正当な競争の結果としての経済的損失と、違法な手段による権利・利益の侵害とは明確に区別して評価しなければなりません。
厚生労働省の雇用指針・競業避止義務に関する説明(37〜38頁)は、最高裁平成22年3月25日判決(サクセスほか〔三佳テック〕事件)を紹介しています。退職後の競業を制限する特約等がなく、営業秘密の利用や会社の信用をおとしめる方法による取引奪取等の事情も認められなかった事案で、競業行為が社会通念上自由競争の範囲を逸脱せず、不法行為に当たらないとされました。
この規範に照らすと、退職直後に多くの顧客が移籍したという外形的事実だけでは、違法な引き抜きと断定することはできません。虚偽の事実を告げて会社の社会的信用を傷つけたのか、在職中の職務権限や社内の業務上の混乱を意図的に利用したのかといった、勧誘の具体的な手段や態様を検証することになります。
従業員の引き抜きに関しても、個々の従業員が自発的な意思で転職を選んだ場合と、会社の事業運営を妨害するような方法で組織的な退職を働きかけた場合とでは、法的評価が大きく分かれます。退職者と勧誘された従業員の役職や人数、勧誘が行われた時期や方法、残された事業部門への支障の程度などを総合的に考慮し、通常の転職勧誘を超えた違法な背信性があるかを判断します。
会社の初動から請求手段の選択まで
法的根拠を把握した上で、実務上の対応へと移ります。初動においてまず求められるのは、会社が受けている影響と、退職者が行ったと疑われる行為とを分けて整理し、日時と客観的な証拠をそろえることです。
時系列と証拠の確保
まず、退職の申出日と最終出勤日を正確に記録します。その上で、社内情報へのアクセス日時、顧客への接触日、契約終了の通知日や同僚への勧誘が行われたとされる日時を並べ、時系列を組み立てます。例えば、顧客の契約終了が退職前から既定路線だったのか、退職者が契約更新のタイミングを狙って意図的に接触したのかによって、検討すべき着眼点や立証の方向性が変わってきます。
顧客や従業員から事情を聴取する際は、誰が、いつ、どのような働きかけを行ったのかを確かめます。直接見聞きした事実と、第三者からの伝聞、本人の推測や感想は明確に区分して記録に残します。退職者からのメッセージやメールが残されている場合は、前後のやり取りの文脈や送受信日時を含め、本人の協力を得てデータを保全します。
会社が管理する業務用パソコン、社用メール、顧客管理システムについては、アクセスログやダウンロード履歴、外部ストレージへの保存やデータ削除のログを保全します。退職者の社内システムへのアクセス権限を遮断する対応と、ログやデータを消去させずに証拠化する対応は、担当部署間で手順を確認しながら慎重に進めます。業務用端末であっても私的なデータが含まれることがあるため、調査の目的や社内規程に照らし、必要な範囲に限定して調査を行い、個人の私用アカウントへの無断アクセスに及ぶような対応は控えます。
営業秘密の不正使用を疑う場合には、対象となる情報の内容を特定するとともに、問題の行為が行われた当時、どのように秘密として管理されていたかを示す資料を収集します。秘密表示の現物、フォルダのアクセス権限設定、誓約書、セキュリティ研修の実施記録などをそろえます。情報が流出した後に管理を強化した事実だけでは、過去の管理状況を立証できない点に配慮します。
在職中の背信行為を問題とする場合も、勤務期間中であったという事実だけで判断せず、本人の職務権限、会社が有していた取引機会、私的に利用された設備や情報との関連性を確認します。退職後の営業活動についても、本人が培った経験や人的関係に基づく正当な営業と、会社が保護すべき情報の不正利用とを、証拠に基づいて見極めていきます。
警告の対象と相手方
退職者に対して警告書を送付する段階では、違反と主張する義務の内容と、問題視する具体的な行為を明確に特定します。対象となる情報や、会社として求める措置の内容も具体的に示します。十分な証拠がないまま、同業他社への就職や既存顧客への接触を包括的に禁じるような過大な要求は避けるべきです。秘密情報の使用停止、保有状況に関する回答、データの返還や廃棄など、事案に応じた現実的な措置を求めます。データの削除を要求する場合も、訴訟などの立証に必要な証拠が失われないよう、保全の手順をあらかじめ検討しておきます。
退職者を採用した転職先の会社に対して請求できるかどうかは、退職者本人の責任とは別に判断されます。退職者を採用したという外形的事実だけでは法的責任を問えず、自社の営業秘密の取得・使用に対する認識や関与、あるいは違法な引き抜き行為への関与といった、転職先企業自身の違法性を裏付ける具体的な事情が求められます。
差止めと損害賠償の要件
営業秘密の不正使用などに対しては、不正競争防止法3条に基づき、営業上の利益を侵害され、または侵害されるおそれがある者として、行為の停止や予防を請求できる場合があります。また、有効な合意が存在する場合には、その合意条項の定めに従って禁止行為の停止を求めます。もっとも、民法709条の不法行為を理由とする場合、不法行為責任が認められるからといって当然にあらゆる営業や勧誘を差し止められるわけではありません。
営業活動を緊急に止める必要がある局面では、裁判所への仮処分申立ても検討に入りますが、保全すべき権利の内容と、本案訴訟の判決確定を待つことができない保全の必要性を具体的に疎明しなければなりません。どの顧客に対するどのような行為を禁じるのか、どの情報の使用を差し止めるのかを明確に特定できるかどうかが判断を大きく左右します。
損害賠償請求においては、義務違反や不正競争行為と損害との間の相当因果関係、および損害額の立証が中心となります。売上の減少分がそのまま法的な損害として認められるとは限らず、退職者の行為がなければ取引が継続していた蓋然性、会社の利益率、顧客自身の事情による契約終了の有無などが考慮要素となります。事案によっては、不正競争防止法に定められた損害額の推定規定が適用できるかも確認します。
差止めと損害賠償のどちらが現実的な選択肢となるかは、事案の性質によって異なります。現在も続いている情報の不正利用や顧客流出を差し止めることが急務なのか、過去に生じた損害の金銭的賠償を目指すのかに応じて、収集すべき証拠と踏むべき法的手続を選択していくことになります。